されど快晴
*01
藤色の唇がその言葉を紡ぐのを、ぼくはただ呆と見つめていた。
ざわざわと木々が揺れる。志乃田の陽は翳り始め、頭巾に隠れた女の顔にさらに色濃く影を落としていた。
分かりましたね、と念を押されて、僕は習慣で肯く。はいと出した声は自分で驚くほどきっぱりと潔かった。心ではこんなに混乱しているのに、身体は自然と彼女に従おうとする。彼女に、というよりは、彼女の背後に控える組織に。
どこまでも仕立て上げられた自分に、思わず自嘲が漏れた。
「何が可笑しいのです、葛葉ライドウ」
「いいえ、ただ、肩の荷が下りたのです」
訝しげな女の声に応えて、僕はもう一度笑った。
嘘を吐くのが巧くなったのは鳴海のお蔭だ。
頭上で、ばさりと烏が舞った。
*02
「…え」
探偵社は珈琲の香りで満ちている。
好物と同じバーガンディーの髪をした鳴海所長はいつもの椅子に座り、目を丸くして僕を見詰めた。
今何と言ったんだと問い返されたのでもう一度、明日でお別れなのですと繰り返す。
冗談だと思おうとしたのか、笑おうとした彼の唇が笑みの形に結ばれ切れずに歪んだ。なんて、急に、と呟く声はあまりに小さくて切ない。
「本当に、急なことですがそう決まりました」
僕はそう告げた。きっと、まるで平然としているように聴こえるだろう。
「明日で最後」
鳴海が呟く。
「そうです」
*03
「そうか…、ははは、」
彼は賢い男なので、僕を一言も責めたりはしなかった。
ただ、声を出して笑った。怒りもせず悲しみもせず、ただ笑った。
それは彼の寂しい性格を感じさせる乾いた笑い声で、僕の胸は痛んだ。こうして今まで、数え切れないあらゆる理不尽を受け入れてきたのだろう。
笑い返して好いものか分らずに、僕は尚更無表情を装う。ああ、こんなに早く別れが来るのなら気持ちなど通じ合わせるんじゃなかった。
こんな気持ちになるのは僕にとってはまったく失敗だ。それとも深入りする前に離れ離れになることは幸いだろうか?
「じゃあ今夜は前祝に飲もう、存分に」
鳴海は立ち上がり、台所から葡萄酒と切子のグラスを持ってきて掲げた。
*04
思えば初めて会った夜にも僕たちはこうして乾杯をした。
鳴海は最初から遠慮せずに好く酔い、僕はと言えば警戒してほとんど呑まなかった。その時には彼のことをこんなふうに想うようになるなんて思ってもみなかったのに。
あのときと同じように、鳴海はぐいと杯を煽る。
「なぁ、ライドウ」
なんですか、と応えると鳴海は困ったように笑った。
「俺の所為かな、やっぱり」
僕は窓の外に視線を流す。お目付け役は見当たらない。
「どうでしょうか。そうなのかもしれません」
報告しないわけにはいかないだろう。
こんな関係が任務にとって善いか悪いか、それぐらいは僕にだって分る。
「俺じゃなくてお前に言わせるってのが憎いよな、また」
猶予も残したくないほどに問題なのだ。なにか行動を起こす前に芽を摘み取ってしまおうとしている。
「くく。一晩あったらなんだってできるのになぁ、ライドウ」
*05
鳴海が笑うので、
「しかし、手放さなければいけないと解っているのに距離を縮めるのは未練になりませんか」
僕は笑い返してそう言った。
「莫迦だな。未練にしなくてどーすんの」
鳴海の手を離れ、ころりと空のグラスが転がる。硝子に葡萄酒の紅が筋を残してまるで血のようだ。
手首を掴まれて引き寄せられる。
鳴海の唇が自分のそれに柔らかく重なり、僕は目を閉じた。
二度目の口付けだ。
僕たちは永いすれ違いの期間を過ぎて、ほんの数日前に気持ちを確かめ合ったばかりだった。
―――ああ、こんなことならば、
恋など叶わなくて良かった。気持ちなど通じなくとも、ただ傍にいられるだけで良かったのに。
*06
「ゴウトも人が悪いな。烏になってから情が薄くなったんじゃないの、鳥だからかね」
巫山戯たように笑う鳴海を僕は咎める。
「ゴウトを責めてはいけません」
僕の気持ちに気付いていながら、永い間見守ってくれていた。僕が鳴海さんを好きだと知っていたのに。
「じゃあ、俺が応えたのが拙かったんだな」
くく、と自嘲する唇を僕は指先で塞いだ。
そんなことはない、と言いたかったが、果たしてそれは事実なのに違いなかった。
僕がどんなに思いをぶつけようと、拒否することが出来る彼だからこそゴウトは見逃していてくれたのだ。
けれど、あのままずっと拒否してくれていたらよかったのに、とは僕には思えない。そこにあるのはやはり思いが通じた喜びだけだった。
こんな僕こそが罪に問われるべきなのだ。
「ごめんな。お前が少しずつ人間を取り戻したように、俺も少しずつ人を取り戻していったのさ」
塞いだ指先を舌先で絡め取り、鳴海はゆっくりとそれを舐った。
ぬるりとしたなまめかしい感触が指の腹を、間接を、皮膚の薄い部分を這い、ぞくりと胸が震えた。
*07
飼い犬同士の恋には首縄が付いていて、主にそれを引かれれば離れ離れの運命なのだ。
存分に僕の指を舐った鳴海は、僕を抱き寄せてもう一度口付けた。
葡萄酒の香りの舌を絡めて貪り合う。既に僕に迷いはない。
唾液の溢れるのも構わずに深く求めて、僕は鳴海の頭を抱いた。鳴海は僕を強く抱き返す。
「はっ…」
「莫迦だな、そんなに焦るなよ。夜は長いぜ」
息をするのも忘れた僕の髪を優しく撫ぜて、けれども熱に浮かされたような声は彼自身も同じように興奮していることを告げていた。
「このままソファでする?ベッドへ?」
「…ベッドへ…」
呟くと突然、勢いよく押し倒された。
「ちょ、なる…」
「ごめん、嘘。とりあえず」
鳴海は僕に馬乗りになりながら、片手で自らのネクタイを外す。
「…両方でしよう」
*08
彼に抱かれたらどうなってしまうのだろう。
畏れがないわけではない。僕は一体どうなってしまうのか、それとも何も変わらないのか。
鳴海は自らのシャツを脱ぎ捨て、少しずつ僕の衣服も剥いでいく。素肌の体温が触れ合うことが嬉しい。その肌の暖かいことが嬉しい。
「…絹のような肌だな」
ためいき。僕の身体を見て触れて、鳴海さんがそう囁く。そんなわけはない。僕の身体は傷だらけで、醜いのに違いなかった。
女性のように柔らかくも無い。彼を受け入れるにはあまりに粗末な器。
「よもや、同情などではありますまいね」
僕の呟きに、鳴海が笑う。
「同情かな、どうかな。この美しい肢体がこれから何処の戦地を駆けるのか―――勿体無いことだね」
この傷跡は僕の誇りであるのだけれど、それを彼が快く思わないことを僕は知っている。
「自分を犠牲にするのは潔さではないよ、ライドウ」
「いまさら僕にそれを問うのは残酷ではありませんか」
煩い唇を塞いでやった。舌を絡めあう、体温が混ざる。
鳴海の腹や背中には、僕以上に激しい傷跡がべっとりと張り付いている。
*09
「はっ……」
葡萄酒の香りがする鳴海の舌が僕の口腔を舐る。
恋しい人とする口付けがこんなに苦くてくるしく、そして甘いものだと僕は初めて知った。
どきどきと早鐘を打つ胸が痛い。息が出来ない。
僕は鳴海の頭を抱き締め、その癖毛に指を絡ませた。
官能的なトワレに混ざる甘い体臭。野生的なムスク。どうしようもない恋慕と情欲が湧き上がって下半身に降りてくる。
深く深く口付けながら、鳴海はすっかり裸にしてしまった僕の性器に触れる。
「っ!」
「もうこんなにして…ライドウ、」
唇を耳元に寄せて、湿った声でそう囁く。
低く柔らかなその声。
僕の壁を壊し、心にするりと入り込んできた彼の声。
「鳴海さん…」
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