グスタフ・フレーリッヒの策略
「ただいま戻りました」
僕は擦り硝子の嵌め込まれたドアを開きながら声をあげた。
―――あれ。
いつものデスクに所長はいない。ついでに、いつもソファで僕が学校から帰るのを待っている黒猫ゴウトも見当たらない。
「…無用心だなぁ」
書類は投げ出しっぱなし。その上鍵を開けっ放しで出かけてしまうとはずぼらにも程がある。
僕は溜息をついて、少し逡巡してからデスクの上を軽く整理した。僕にはただ無秩序に散らかっているようにしか見えないこの乱雑な書類の山は、しかし所長にだけ分かる法則で整理されている(つもり)らしい。僕はいつも勝手に片付けてしまい怒られるのだが。
ちくたくと時計の針が回る。
僕は応接間の掃除などをしながら留守番をすることにした。所長が留守だからといって事務所を閉め、ただでさえ少ない依頼を見逃すことになっては困る。
大体彼は依頼の選り好みが激しいから、いっそ最初から僕が受けてしまったほうが仕事になるかもしれない。結局調査をするのは僕なのだし。
一体あの人は僕が来る前はどうやって仕事をしていたのだろうかと訝しくなる。
興味のある仕事しか請けない―――その癖遊ぶのが好きで、女好き。
今日だって、おそらくどこかの美女に「聞き込み」でもしているに違いない。
西洋風のスタイルを好む彼は趣味も好く、まるで外国人のように洋服を着こなす。おまけに会話も機智に富んでいて実に女性にもてるのだ。
先日など、探偵さんの彫りの深い顔立ちが独逸俳優の誰それに似ているとか近所のご婦人が噂をしていた。僕は活動は見ないのでそれがどの程度信用できる情報なのか分からないのだけれど。
―――噂話で華やいだ女性のぽうッと上気した頬を思い出して、思わずくすりと笑みがこぼれる。
ふと気付くとあれこれ彼のことを考えていた。
あらかた掃除も終わってしまった。今日出た課題をテーブルに広げながら、僕はうぅんと伸びをする。
―――それにしても、
遅いな。
ちくたくと時計の針は回る。
既に日の落ちかけた窓の外から夕陽が差し込み、事務所の中を赤く染めている。
所長だけが遅いのならまだしも、ゴウトまで帰ってこないとはおかしい。何かあったのだろうか、とほんの僅か不安を覚えたその時、静寂を引き裂くように電話のベルが鳴った。
―――鳴海さん?
「はい、鳴海探偵事務所」
僕は所長の真似をして電話を取る。
「ライドウ君!」
朝倉女史の声だった。
「タエさん。どうしたんですか」
ぜいぜいと息せき切って、ただごとでない様子だ。
「なっ、鳴海さんが。大変」
「……鳴海さんが?」
「一体ぜんたい、どうしたんです」
「良いから、とにかく来て!大変なのよ」
女史は僕を急かして電話を切った。ざわりと不安が鎌首をもたげる。
―――まさか、所長に何か?
いや、彼はドジを踏むような人ではない。何か危険に巻き込まれてもきっと巧く抜け出すはずである。そう信じてはいるのだが、事情を話す暇も惜しいという様子の彼女に否が応にも悪い予感が膨らんだ。
帰ってこないゴウト。もしかしたら、鳴海さんの危機に付いていってしまったのでは…?
―――鳴海さん。どうか無事で。
僕は急いで事務所を出て―――駆け出した。
タエさんの指示の通りに辿り着いたのは銀座、ミルクホール新世界だった。なるほど、繁華街に揉め事は付き物だ。
「タエさん?いるんですか」
警戒しつつ豪奢な作りのドアを開いたその時―――
頭上で派手な破裂音が響いた。
「っ!」
「おめでとう!」
沢山の歓声と拍手。
僕はぱちくりと目を瞬かせた。
色とりどりの紙テープが目の前にぶら下がっている。一瞬遅れて、クラッカーを鳴らされたのだと気付いた。
「おめでとう、ライドウ」
声のする方を見遣ると―――スツールに凭れた鳴海所長がにやりと微笑んでいた。
その横にはタエさん。色とりどりのグラスが並ぶカウンターの端にゴウトが座っている。ずらりと見覚えのある面々が並んだ端には、ラスプーチンや大道寺伽耶嬢まで…何だこれは。
「だまされたわね、ライドウ君」
タエさんが嬉しそうに笑う。
「……何の真似ですか、これは」
「何って、お祝いさ」
「…あ」
そこでようやく、今日が自分の誕生日だということに僕は気付いたのだった。
「真逆、昼間から準備していたんですか…」
ぐるりと見渡す。一体いつから人を集めて?
「お前は勘がいいからな。気付かれないようにするのは中々骨が折れたぜ」
鳴海はしてやったりという笑顔で答える。憎らしい。
「…ゴウトまで」
きっと睨み付けると、お目付け役はそ知らぬ様子で猫の振りをした。
「酷い。僕がどれだけ心配したと思ってるんです」
そう拗ねてみたが―――胸にぽうと灯りが燈ったように暖かくなるのを感じる。
生まれた日をこんな風に祝われたのは初めてだ。
「まぁそう怒るなよ。誕生日プレゼント、何が欲しい?」
もう充分すぎるほど充分だけれど。
僕は僅かに悩む振りをした。
「じゃあ…今度、活動写真を観に連れて行ってください」
僕の言葉に鳴海は目を丸くした。
「へぇ。意外だな。―――良いよ、すぐに行こう」
貴方に似ているという独逸俳優を観てみたいのだ。
ということは内証にしておこう、と僕は思ったのだった。
end
2006/04/08
「強襲型。」のタカコ様のお誕生日に(無理矢理)捧げさせて頂いた小説です。
ちなみにグスタフ・フレーリッヒの出ている映画は「メトロポリス(通称VIP先生)」(1926年)ですw
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