ハンケチーフと午後の溜息
階段を上りきり、探偵社の入り口に近付こうとしたところで中から女性が駆け出してきた。
あやうくぶつかりそうになるのを僕はひらりと避けて遣り過ごす。
「あっ」
前も見ずに飛び出してきた彼女は一声上げて立ち竦み、僕を見上げた。清楚なワンピースを着こなした中々の美人で、その手には白いレースのハンケチをしかと握り締めている。
彼女は真っ赤な瞳でぼくに恨みがましい一瞥をくれるときゅっと唇を噛み、会釈もせずに階段を駆け下りていった。

「……」
またか。
軽く溜息をついてドアを開くと、思った通り頬を赤く腫らした鳴海探偵がだらりと椅子に腰掛けている。
「やぁ、お帰りライドウ」
彼は気怠げに片手を挙げて僕に声を掛け、
「帰ってきたとこ悪いんだけど、珈琲入れてくれない?」
と続けた。
「…はい」
僕は頷いてキッチンへと向かう。背後から付いてくる黒猫が呆れた声でにゃあと鳴く。
鳴海は人使いが荒い、とぼやくゴウトの声を聞き流してブルーマウンテンを一杯分挽く間、デスクからは何度か重苦しい溜息が聞こえてきた。

「ああ、お前の煎れるコーヒーが一番旨いよ」
差し出した珈琲を一口含んで鳴海がしみじみと漏らした。白々しい科白だ。
「泣いてましたよ」
思いがけず責めるような口調になったかもしれない。
鳴海は僅かに眉毛を上げ、「興味あるかい?」と聞いた。
「…別に」
「まぁ、ライドウちゃんにはまだ早いかな」
にやりと唇をあげる顔も厭味なほど美形だ。なるほど、この顔に女は騙されるのだろう。
「ところで彼女、何か言った?」
「すれ違い様に睨まれました」
憎しみの込められた赤い瞳を思い出して僅かに苦々しい気持ちになる。考えてみれば僕が睨まれるのもおかしな話だ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというやつだろうか。
「ああ、一緒になってくれって言うからお稚児さんも連れてって良いかいって言ってやったのさ」
「…」
僕はぱちくりと目をしばかせた。
足元のゴウトが低い声で下衆と呟くのが聞こえる。
「…僕はいつからあなたのお稚児さんになったんですか」
さすがに呆れた声が出た。
「いや、誰も君の事とは言ってないんだけどね。でもそう思っただろうなぁ。ああ、明日には街中の噂かも知れないな。どうしよう?」
鳴海はさも困ったと言う風に両手を上げてみせた。自分で言った癖に…調子が良いにも程がある。
「困ったね、ライドウ」
「…くだらない」
「酷いな、くだらないって。一大事じゃないか。まぁ俺はお前となら噂になっても構わないけどな」
先程までの憂鬱はどこへやら、楽しそうにはしゃぎ始める鳴海。僕はちょっと肩を竦めて踵を返した。まったくこの男には付き合いきれない。
「あ、ちょっと待てよ、どこに」
「用事もなさそうなので帰ります」
「なんだよ、もっと遊ぼう」
これで遊んでいるつもりなのか。頭痛がする。

一見巫山戯ているように見えて彼の仕事ぶりは優秀だ。だからその点ではむしろ僕は鳴海探偵を尊敬すらしている。
けれど彼は持ち前の美形と軽口で女をたぶらかすだけでは飽き足らないのか、なぜだか時折僕にもその手腕を披露しようとする嫌いがあるのだ。
冗談だとは分かっていても、リアクションに困る。
「まぁまぁ、嘘だから怒るなよ。ほんと、お前はからかうと面白い」
「…」
…どこからが嘘だ?
恋人に僕を愛人だと説明したことか、それとも噂になっても構わないということか…はたまた全部?

ああ、全部が嘘でありますように。
僕は思わず額に手を当てて深く溜息をついた。
「お前、表情豊かになったね」
それを見た鳴海が嬉しそうに笑う。…呆れただけなのだが。
「前はずっと仏頂面でさぁ。何考えてるか全然わかんなかったもんな。少なくとも今は分かる」
「僕の気持ちが分かるのならそれを汲んでくれませんか」
「前は不平不満すら漏らさない子だったもんなぁ。成長したなぁ。これも俺のおかげだな」
一人ごちてうんうんと頷く彼。…この人には何をいっても無駄なのかもしれない。とことん喰えない人物なのだ。
彼は僕のことを何を考えているか分らないなどと言うが、正直言って鳴海は僕なんかよりもよほど掴みどころのない男だと思う。
今はへらへらと笑っているが、彼を見ていると時々底のない深淵を覗いているような気持ちになることがある。

…喰えない男なのだ。
だから彼の言葉を信用してはいけない。
「よしよし、これからもうんと可愛がってやるからね。まだまだ序の口だ」
「…遠慮します」
「俺の愛が分らないのか、悲しいなぁ」
だから彼を信用してはいけない。
現に、今日も一人の淑女が彼のために傷付いたのではないか。
「女性を泣かせるのを辞めたら少しは信用してもいいですよ」
思わずそう口走ると、
「嫉妬か!」
嬉しそうに手を叩かれてしまって閉口した。

僕は諦めてソファに座り込む。
冷めかけたブルーマウンテンをそれでも旨そうに鳴海は飲み干して、足元で黒猫がにゃあと鳴いた。

end
2006/03/22
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