手首までが遠いので

最近ライドウがおかしい。

いや、まともに戻ったというべきだろうか。
「おやすみなさい、鳴海さん」
「ああ、おやすみ」
きっちりと襟を合わせた浴衣の寝巻きに着替えたライドウが俺に頭を下げる。
黒猫は既に寝所に引き払っていて、こういう時は、少し前なら俺たちは軽く口付けなどしたのだ。
しかしここ数日、ライドウはそれをしようとはしない。どころか彼は俺に指一本も触れなくなった。不審に思って一度俺から強引に抱き寄せてみたら微妙に抵抗されたのでそれ以来俺から手を伸ばすのもやめた。
ライドウを飲み込み、ぱたりと固く閉じる扉を見守って俺は溜息を吐く。
―――おかしいわけじゃない。まともに戻っただけだろう。
おかしいというならば、これまでの状況の方がよほどおかしかった。男同士抱き合って眠り、髪を撫ぜ合い口付けを交わす日々がまともだとはとても言えない。
「…まぁ、飽きたってことか」
若者が思春期の興味で身近な人間と恋人ごっこをしてみて、満足したということだろう。遊びが終わったのだ。
かり、と俺は頭を掻く。こんなとき自然に苦笑が浮かぶ自分が恨めしい。なりふり構わず恋人の心変わりを責められるほど俺は若くない。
―――抱かなくて良かった。
自分の自制心に乾杯だ。本当に、抱いちまわなくて良かった。未だ何もなかったことにできる。少し時間が経てば忘れられる。
それがライドウにとって一番良いのは解りきっていた。そもそもこんな遊びは元々始めてはいけなかったし、もっと早くに俺が自分で辞めねばならなかったのだ。
俺のしていたことは明らかに契約違反だった。ヤタガラスにも葛葉にも知れたら恐らくただでは済まない。どういうつもりか黙秘を通していたお目付け役も、さすがに俺たちが肉体関係を持てば黙ってはいなかったろう。
そうなる前にライドウが飽きてくれて良かった。そうだ良かった。
未練がないといったら嘘になるけれど。
大丈夫だと口の中で呟いたら自らに言い聞かせるような響きになって、俺は僅かに自嘲した。

「今日は帰りが遅くなります」
出掛けにライドウが言ったので、ああそう、と俺は頷いた。
「申し訳ありませんが、夕食は」
「ああ、適当に摂るから大丈夫。気をつけてな」
ライドウが自ら遅くなると言う日は大体修行をしに出かけるのだ。葛葉にはそういう場所があると聞いている。管理された場所の修行で死ぬことはないだろうとタカをくくっていたら、いつだか酷い怪我で帰ってきたことがあった。
まったく葛葉ってやつは非人道的な集団なのである。知っていても俺は、気をつけて、と送り出すことしか出来ない。
こんな時に抱き締めることができたら、少しは不安も紛れるのだけど。まぁ結局そんなことも自己満足でしかない。
「行って参ります」
「行ってらっしゃい」
ああ、解っているけど抱き締めたい。髪を撫でたい。口付けたい。
「ライドウ」
「…はい」
お前、どうして振り返るんだ。俺が腕を伸ばしたらそうやって、身を固くする癖に。
「…なんでもない。本当に気をつけて」
「有難うございます」
少しだけ微笑んで帽子の鍔を下げるその手首を危うく掴んでしまうところだった。

―――あーもう、どうしようもねぇなぁ。
久々に酔った。夜の深川は温かい。喧騒に紛れると少しだけ気が晴れる。
畜生、畜生畜生。
頭の中の呟きはいつのまにか口から漏れていた。
「畜生」
石ころを蹴る。それはころころと転がって、客を引く女の足元で止まった。
色鮮やかな着物の裾から覗く白い足。
「おニィさん、何をぼやいておいでだい」
近寄ってしな垂れかかる女の肌から香と白粉が匂う。ああ、好い女だ。
「シケた面して、男前が台無し」
「男前が聞いて呆れる。振られちまったのさ」
「見る目がないねぇ、どこのお多福さ」
ははは、と俺は笑った。慰めてくれるかい、と言いながら女の腰を抱く。寝て帰ったらライドウは気付くだろうか。勘の良い子だ、きっと気付くに違いない。
嫉妬させたいなんて、俺も随分安っぽい男だな。
「わっちが忘れさせてやりんすよ」
俺の股間に白い手を沿え、女が甘える。なんて魅力的な申し出だろう。有難うお嬢さん、俺は頬を寄せる女の耳元で囁いた。
「すまねぇな、だけど俺、男にしか勃たねぇんだ」

「痛て、あの女力一杯殴りやがって」
事務所に戻った俺は、手拭いを濡らして熱を持つ頬を押さえた。冷やかしやがってと殴られた拍子に女の爪が引っ掛かり、頬には一筋の引っ掻き傷ができた。
「馬鹿だな俺も」
買えばよかった。正直無性に人恋しい。時計はとっくに零時を回っているがライドウは帰らない。いや、こんな日には帰ってこないほうが良いのだけれど。
「あーあ」
溜息が出た。もちろん男にしか勃たないなんてのは大嘘で、実のところ相手など誰でも良いから吐き出したいほど昂っている。
「…ちくしょう」
呟いて宙を仰いだ。
畜生、ライドウを抱きたい。
ああ、もっと早く俺のものにしてしまえば良かった。抱かなくて良かったなんて大嘘だ。何もなかったことにして忘れられるなんて、そんな甘いことができないよう滅茶苦茶にしてやればよかったんだ。
あの夜に、あの夜に、あの夜に。何も知らないあの子を犯してしまえば。あの白い肌に噛み付いて、誰も受け入れたことのない身体を無理矢理に開いて俺の精を注ぎ込み、何度も何度も貫いていたならあいつは簡単に忘れることなんてできなかったに違いないのに―――、
叶わなかった欲望を想像で満たしながら俺は自慰に耽る。いとおしい子供を壊してしまう甘美な妄想。そうしたら忘れない、きっと忘れない、きっときっと。
「っ…」
射精は呆れるほどの快感を伴った。ライドウを想いながら自慰などしたのは初めてで、想像でもこんなに良いのかと思ったら本当に馬鹿馬鹿しくて笑いが漏れた。ああまったく遣り切れない。
―――抱かなくて良かった。
そうしたらきっと忘れられなかった。飽きなくともいつかは忘れなければいけないのだから、やはり抱かなくて良かったのだ。
衣服を整えて手を洗い、煙草を吸った。3本目を灰皿に押し付けたところでライドウが帰ってきた。

「お帰り」
「…起きていらっしゃったのですか」
美しい眉が僅かに顰められるのを見て気付く。ああ、この子は鼻が利くのだった。俺にはもう判らないほどだが獣の匂いが残っているかもしれない。
「はははは」
突然笑い出した俺を訝しげにライドウが見詰めた。
ああ、その手首を掴むには、俺たちには余りにも距離がある。


<< >> 戻る
2006/07/21