そして二人を別つまで



「あっ、ああっ、好い、嗚呼」
 薄明かりに響く嬌笑。白い肌に噛み付くように鎖骨を舐め上げればくすくすと笑い声が上がる。
 水揚げされたばかりの少女の内は未だ固く未熟だ。小振りの胸は掌で収まるほど。細い腰、浮いた肋、肉の薄い下腹。少し前までは熟れた婀娜女が好みだったのに、いつの間に自分はこんな青臭いのが趣味になったのだろう。
 滑らかな女の肌に橙の灯りが揺らぐ。部屋の隅に置かれた行灯の周りを茶色い蛾が飛んでいた。
「鳴海さま、もっと、嗚呼もっと」
「!」
 鳴海さん。もっと。娼妓の声を無意識に少年のそれと摩り替えたことに気付いて思わずぎくりとする。
「ああ、ん」
 俺は泣き出すような女の喘ぎ声を唇で塞いで、何も気付かなかったことにした。ふと見れば蛾が消えている。恐らく行灯の内に飛び込んで焼かれてしまったのだろう。

 終電を過ぎたので車を呼んで帰った。
 泥酔と云うほどでもない。と自分では思っていたが、鍵穴にキィのなかなか刺さらないところを見るとそれなりに回っているらしかった。
 無言で玄関を開けると明かりは消えている。
 住み込みの書生は朝が早い。にも関わらず最初の頃は俺の夜遊びの度に寝ずに待っていたので、頼むから先に寝てくれと言いつけた。女房じゃあるまいし、三つ指付かれて帰りを待たれたのでは気楽に朝帰りも出来ない。
 水を飲もうと手探りで台所に入る。覚束ない足取りなりに物音を立てぬように努力した。明かりを点けないのは書生を起こさぬようにとの配慮で、しかしそれは相手の為と言うよりは自分の為だった。
 今宵の空は雲ひとつない美しい偃月で、月明かりが窓から入り込んでいるので暗くとも不自由はない。俺は流し台に手を付き水道を捻る。流れる水にそのまま口を付けたとき、かたり、と背後で物音がした。
「お帰りなさい、鳴海さん」
 声と共に室内に灯りが点されて、俺はゴクリと喉を鳴らす。
 滴る水を拭って顔を上げた。台所の入り口に、微笑を浮かべた書生が立っていた。
「ああ、ただいま。起こしたか。悪かった」
「いいえ、偶々読書をしていたので」
 嘘だ。
 此奴は俺の帰りを待っていたのだ。そう確信したが口には出さない。
 書生の名はライドウという。葛葉ライドウ、これはいわば襲名した役職であって本名ではない。預かるときに本名も聞いたような気がするが呼ぶ機会がないので忘れてしまった。 問えばもう一度教えてくれるのだろうが別に興味はない。
「また、灯りも点けずに帰っていらして。僕になら気を使わないでください」
「いや、そういうわけじゃないよ。面倒だっただけだ」
 お前に会うのが、とはもちろん言わない。
 ライドウは目許に微笑を浮かべたまま、ふと寂しげに口元を結んだ。切れ長の瞳に憂いを含んだ睫の影が落ちて、俺は思わず目を逸らす。
 まるで日本人形のように整った貌をしたこの少年は時折こんな表情で俺を見詰める。とても居心地が悪い。
「今日はどちらに」
 分っている癖に訊く。女を買いに行ったのだとわざわざ告げるのも躊躇われ、俺は僅かに唇を上げて肩を竦めた。
 ライドウはそれ以上は追求せず、軽く俯いて唇を噛む。俺はそんな仕草には気付かない振りをして欠伸を一つ漏らした。
「さて、今日はもう遅い。寝るよ。お前も寝ろ」
「…そうですね、おやすみなさい」
 ―――何故そんな眼をする。
 哀しいような、何かを諦めたような、それでいて慈しむような。感情を複雑に混ぜて、しかし仄かに笑みを浮かべたままの瞳。
 ―――お前がそんな眼で視るから、俺は。
 そこまで考えて、俺は慌てて頭から愚考を追い出した。
 いいや、なんでもない。此奴がどうしたというのだ。どんな顔でいくら見られようともどうということはない。俺は何も気付いていないし、だからもちろん影響されるようなこともない。なにもない。
 正直な話、俺は此奴との距離を測りかねている。時折示される奇妙な態度、その正体に気付かぬほど自分は鈍感ではない。しかしそれを認めるのはとても面倒なことだった。この書生は仕事で預かっているだけなのでそれ以上の領域に立ち入るつもりもない。
 だから俺は、とにかく何にも気付かないことに決めた。
 思春期の同性に対する恋心など一過性の流行り病のようなものなのだ。多くの者が通り過ぎる感情だが、ほとんどの場合刺激しなければすぐに忘れる。
「おやすみ、ライドウ」
 俺は書生に笑いかけつつ、その瞳から逃げるように自室へと急いだ。



「こんにちは探偵さん、ご機嫌如何?」
 朝倉タヱがやってきたのは日も昇りきった午下だった。
「まぁ、寝起きみたいな顔をしてだらしない」
 白い洋装を颯爽と着こなしたタヱは新婦人の代表のような女だ。女だてらに中々行動的な新聞記者で(優秀かどうかは黙秘)、御多分に漏れず今日も朝から労働に従事していたのだろう。呆れたように大袈裟に腕を広げる彼女を横目で見ながら俺はデスクに突っ伏した。窓際の黒猫までもが呆れ顔で俺を見る。
「寝起きなんだよ。ついでに昨晩呑み過ぎて頭が痛いからあんまり大声を出さないでくれる?」
「まぁ呆れた!」
 今何時だと思ってらっしゃるの、と言う言葉にそう言えば昼時ですねと応えたのはライドウだった。
 此奴は四六時中黒い学生服に身を包んでいるがそれは昼の雑踏にも宵闇にも都合よく紛れることができるからで、師範学校に籍を置いてはいるものの実際は滅多に通わない。我が社では探偵見習いという名目で雇っているがそれすらも隠れ蓑で、彼の本職は裏の世界から帝都を守護する悪魔召喚師などという胡散臭いものである。
 悪魔召喚師とは馴染みの薄い言葉だが、日本古来の呼び方をするなら陰陽師と云って恐らく差し支えないと思う。人ならざるものを使役する奇妙な業を古より伝えその力を持って都を護る、そういった一族がこの国の影には存在する。しかもこの若さでライドウの名を継ぐほどだから此奴はその中でも相当に優秀で、恐らく世が世なら中務省に従じ政を動かしていたに違いない。何しろ里が葛葉で、保名の如き男前(もちろん武芸にも長けている)なのだから出来過ぎだ。
 そんなわけで何か事件が起これば直ぐに向かえるよう、ライドウ少年は学校にも行かず平日の昼間から社に待機しているのが常だった。ウチは怪異専門の探偵社で、つまりその所長である俺も胡散臭さは五十歩百歩だ。ちなみに、こんな所に出入りしてると君の記事まで眉唾扱いされるよタヱちゃん、と何度も言って聞かせているのだが目の前の若い女性記者は頑として聞き入れない。最も昨今は猟奇モダンなるものが流行しているらしいので、彼女が好んで追う奇奇怪怪な事件の記事にもそれなりに人気があるようだ。
 つまりこの3人、こうしてお天道様の下に雁首を揃えてはいるもののそれぞれが実に如何わしい稼業を営んでいることになる。とても真っ当とは言えない。
「お昼ご飯、召し上がりましたかタヱさん」
 如何わしさの代表とも言うべき悪魔召喚師が、しかしその名に似つかわしくない木漏れ日のような笑顔をタヱに向ける。まったく此奴は呆れるほどの美形で、しかもそれを充分に自覚しているから質が悪い。
「いいえ、そう言えば未だ」
「召し上がっていかれますか?僕何か作りますけど」
 おいおい勝手に決めるなよと思ったが、アルコォルの抜け切らぬ頭でタヱの相手をするのも面倒なのでライドウに任せることにした。
「そんな、ライドウ君に作らせるなんて申し訳ないわ」
 タヱがしなを作って首を振る。いつもはライドウ君珈琲お願い、などと気楽に言っている癖に殊勝である。
「そうだ、どうせなら外食にしましょう。奢るわよ」
 嬉しそうに手を叩き、タヱはくるりと俺の方を振り向いた。
「というわけで、あたくししばらくライドウ君をお借りしてもいいかしら探偵さん」
 なるほど、俺ではなくライドウから情報を引き出そうという魂胆か。ライドウは悧巧なので余計なことは言わないだろうし、俺も手間が省けて万々歳だ。俺は二つ返事で頷いた。最近は書生と二人きりの午後にも些か辟易気味なので丁度良い。
「ああどうぞ、いってらっしゃい」
「所長は一緒にいらっしゃらないのですか」
 それでは意味がないじゃあないか。
「あらライドウくん、あたくしと二人きりでディトじゃあご不満?」
 ぷうと頬を膨らませるタヱに迫られ、ライドウは慌てて首を振った。
「いいえ、そんなことは」
 歳相応に照れたような表情を浮かべているところを見るとどうやらまんざらでもなさそうだ。なぜだかほんの少しだけ気持ちが粟立ったので、俺はそれを誤魔化すように笑った。
「たまには羽を伸ばしておいで。俺は宿酔いが酷いからここで寝てるよ」
「…寝ないで仕事をしてください」
 善は急げとばかり素早くタヱに腕を引かれたライドウが聞き逃さずに振り返る。はいはい判ってますよ、と言いながら俺はひらひらと手を振った。扉が締まる直前、黒猫が後を追って足元を擦り抜ける。
 漸く独りになった俺は椅子の上でうんと伸びをした。
 穏やかな午後である。
 天気は快晴、風も凪。

 夕方になり戻ってきたライドウはうわの空だった。
 食事を作りますと台所に入ったものの、包丁を使う音も途切れがちだ。俺ははてと首をかしげた。
 出来上がった夕餉にもろくに箸を付けない書生の態度が如何にも何かありましたといわんばかりだったので、仕方なく俺は訊いてやることにする。
「どうしたんだ、元気がないな」
「…そんなことは」
「タヱちゃんと何かあったのか?」
 ぴくり、とライドウの肩が震えた。
「…なにもありません」
 俺は僅かにむっとする。それが何もなかったという態度か。…しかし、まぁ。
 ちらと視線を流せば、ソファで黒猫が眠っている。此奴は一見ただの猫だが、実際はライドウの目付け役であるらしい。話を聞けば中々に厳しいそうだから(残念ながら俺には彼の声は聞こえない。彼の方に俺と話す気がないだけかもしれないが)、此奴が一緒にいるかぎりおかしなことは起こり得ないとは思うが。
「何もないなら良い」
 問い詰めるのも面倒になったので突き放した。大体、タヱとライドウに何があろうと俺の知ったことではない。
 しかし突き放したのが善くなかったのか、ライドウは思いつめたような顔を上げた。しまった、と思うが遅い。ろくでもないことを聞かされる予感がした。
「鳴海さん」
「…なんだ」
 だらしなく姿勢を崩し、頬杖をついて応えながら、俺はライドウから目を逸らして食後の珈琲に視線を落とす。拒絶の意思を表したつもりだったが少年には通じない。
「鳴海さんはタヱさんをどう思いますか」
「どういう意味で?」
「女性として」
「とても可愛らしいと思うよ」
「…僕もそう思います」
 俯いて少年が微笑む。例の、何かを諦めたような達観したアルカイックスマイルだ。
「タヱさんは鳴海さんのことがお好きなんだそうです」
 俺はぱちくりと目を瞬かせた。何を言い出すかと思えばそんなことか。何を今更。
 そんなことはもちろんとっくに知っているし、彼女も俺が察していることに気付いているはずである。しかし、積極的に応える気がないのなら気付かぬ振りをするというのが大人の恋愛のルールなのだ。
「お前ね、そういうのは勝手に漏らすもんじゃない。お互い大人なんだから、伝えたいと思えば自分で伝えるだろ」
 女性から想いを伝えるのははしたないという風潮も未だ色濃く残ってはいるが、新婦人朝倉タヱのことだ。そんな女性蔑視の、前時代的な考えは持ち合わせていないだろう。その彼女が黙しているということはつまり、俺との今の関係に満足している証拠だろうと思っていたのだが。
「それとも伝えてくれと頼まれたのか」
「違います、すみません」
 俺は溜息を吐いて椅子の背もたれに身体を預けた。
「…聞かなかったことにしよう。それで?」
 仕方なく俺は先を促した。この会話の流れではそうするほかにない。
「タヱちゃんが俺を好きだからなんなの」
 ライドウが顔を上げて俺を見据える。口元には穏やかな笑み。
「…鳴海さん、本当はもう判っているんでしょう」
 微笑んだまま、僅かに首をかしげてそう言った。
 俺は口を噤む。黙っては認めるようなものだが、何のことだと問えばまるで答えを促すかのようだ。
「分からないな。興味もない」
 少しだけ逡巡し、俺はそう言った。傷付いたように少年の瞳が揺らぐのを見て胸が沸き、不思議な気持ちになる。俺は喜んでいるのか。
「…そうですか」
 人形のような顔が憂いに翳るさまはとても美しかった。
 俺は此奴が傷付くのを見て喜んでいる?まさか、そんなわけはない。
 ―――それではまるで。
 続ければ面白くない結果に行き着きそうだったので思考を遮断した。
「話はこれで終わりか」
 俺は立ち上がる。ライドウはそれ以上何も言わず、また例の微笑を浮かべただけだ。
 思わず舌打ちが出た。こんな状態を続けるのはどう考えてもうまくない。



 その日珍しくライドウは学校に行っていた。裏から手を回し特別にいろいろと免除されている身ではあるものの、月に数度はどうしても通わねばならないときがあるらしい。
「あら、ライドウ君はお留守?」
 正午も過ぎた頃、朝倉タヱが事務所に顔を出した。
「お留守だよ。今日は珈琲も出ないぜ」
 そう言って追い払おうとしたのだが通じず、ご心配なく自分で淹れるわなどと言いながらタヱは勝手に来客用のソファに座った。まったく近頃はライドウが甘やかすから、客が図々しくなっていけない。
「それで?今日は何の用だい」
「先日お願いした件、何か新しい情報がないかと思って」
 にっこりとタヱは微笑む。俺はうんざりして手を振った。
「幽霊画から女が抜け出して人を喰う話だったら今日はお留守のライドウ君に任せてるから、俺に聞いても無駄だよ」
「まぁ、貴方って本当に役立たずね!」
 呆れたようにタヱが声を上げる。この女には呆れられてばかりでそれは自分でも至極尤もだと思うのだが、まったくこんな俺の何処が良いと云うんだろうか。
「役立たずで悪かったね」
「本当に、顔の他には何の取柄もないのねぇ」
「それはどうもありがとう」
 なるほど顔か。得心して上等の微笑を向けてやると、タヱの頬が僅かに染まる。お互い分かっていてこれぐらいのゲームを楽しむのが大人の恋愛というものだなどときまぐれに考えてから、ふと思いついた。
「そうだ、タヱちゃん」
「なぁに?珈琲?」
 淹れてきましょうかと立ち上がりかけたのを制する。
「違うよ。良い事を思い付いた」
「まぁ何の悪巧みかしら」
「ははは。きみ、俺の恋人にならないか」
 タヱはぱちくりと瞬きをした。俺は椅子から腰を挙げ、つかつかとタヱの座るソファへと近付く。
 そうだ、始めからこうすれば善かったのだ。
「何を仰るの、突然」
 戸惑いながらもその瞳が潤むのを見逃さない。俺はタヱの前に屈み込み、後ろの壁に片手を付いた。
「俺の恋人になってくれ」
「…冗談はお止しになって」
「冗談ではないよ、お嬢さん」
 顔を寄せる。後ずさる顎を捉えて囁いた。
「ね、いいだろ」
 タヱはまるで氷のように固まって動かなかった。その瞳は俺の真意を探るように細められている。
「…あたくしを利用するつもり?」
「何の事だ?君のことが好きなんだよ」
「よくもそんな嘘を!ご自分の顔を鏡でご覧になるといいわ。酷い悪人相」
 唇を尖らせてそう言い、タヱはぷいと横を向く。
「嘘じゃない、愛している」
「呆れた。なんてぺてん師なの!」
 愛されているかどうかぐらいあたくしにだって分かるのよとタヱは言った。それはそうだろう。こちらだってそれを承知でお願いしているのだ。
「…分かったわ、ライドウ君が原因ね。彼が怖いの?」
 忌々しい。俺はタヱに覆い被さるようにしてソファに膝を付く。
「あたくしはライドウ君の味方よ」
「じゃあ付き合う振りでいい。俺を好きなら頼むよ」
 タヱの体がぴくりと強張った。
「君だってライドウの気持ちが分かっていてあんな事を言ったんだろう?よくも味方だなどと言えたものだ」
「それは…違うのよ、」
 何が違うのだと問えば、タヱは僅かに唇を噛む。俺は笑いながらもう一度彼女の顎を捉え、その額に軽く接吻した。
「…意地悪」
「決まりだ」
 ああ、だから大人は辞められない。

「ご機嫌ですね、鳴海さん」
 朝からシャワーを浴び、鼻歌交じりで一張羅に袖を通した俺に向かってライドウが不思議そうに声をかけた。
「珍しく早起きで。今日はどちらにお出掛けですか?」
「ああ、タヱちゃんとディトなんだ」
 鏡の前でネクタイを整えながらそう答えると、ライドウが言葉に詰まるのが分かる。俺はライドウを振り返った。
「お前が仲を取り持ってくれたからね。お蔭様で」
「そう…ですか。それは、」
 良かった、と呟いてライドウは頬を引き攣らせる。笑顔を作ろうとして失敗したのだと分かったが俺は気にしなかった。
「じゃあ、行ってくるよ。帰りは遅くなるかもしれない」
「…行ってらっしゃい」
 見送るライドウの表情は今度は綺麗な微笑を浮かべていて、俺はなんだか酷く残酷な気持ちになる。

 タヱとは飯田町の駅で待ち合わせ、フルーツパーラーで一服してから浅草に出てオペラを観た。
「…口惜しいけれど」
 あれやこれやとオペラの感想を話し合いながら洋食屋で夕食を取ったあとの帰り道、女の足に速度を合わせるように気を付けつつ歩いていると、タヱがぽつりと漏らした。
「ん?」
「探偵さん、エスコートがお上手ね。とても楽しかったわ。本当に口惜しい」
「ははは、当たり前じゃないか。俺を誰だと思ってんの」
 俺は笑いながら、正直こういうのも悪くはないかもしれないと半ば本気で思っていた。
 それだけ楽しく、有意義な一日だったのだ。
 見上げれば月はほぼ丸い。確か今日は月齢十四だっただろうか。街灯の光に気圧されながらも、その光は確かに俺たちを照らしている。
 月夜の神楽坂、最新の洋装を着こなして肩を並べる俺たちは傍から見ても似合いに見えるはずだった。多少喧しいがタヱは愛嬌があるし、記者だけあって流行にも敏感で知識も豊富だ。話をしても楽しいし、真面目に付き合うのならこういう女が良いのかもしれない。
 否、真面目に付き合っても彼女に迷惑を掛けるだけなのは承知だ。何しろ本当の名を持たない自分は、真っ当に身を固めることが出来る身分ではない。
 それでも、いやだからこそ、恋愛をするならばこういう相手が理想だとも思う。タヱは生涯独身でも仕事を続けたいのだと話していた。自立した職業婦人に自堕落な俺、ぴったりではないか。
「俺さぁ、タヱちゃんのこと本気で好きになりそうだなぁ」
 少年と二人、ソドムの愛などに浸るよりは百倍も良い。
「逃避しているわね。あたくし、そんな臆病者に惚れたのではなくってよ」
 肩を抱こうとしたら逃げられた。臆病者、と俺は呟く。
「誰が何から逃避しているって?」
「どうしてライドウ君のことが怖いのか、ご自分でよくお考えになったら?」
「怖くなどない。大体男同士だぞ、不味いじゃないか」
「自覚しているんじゃないの」
 ふと気付けば既に銀楼閣の前だった。タヱは街灯の下でぴたりと立ち止まり、背伸びをして素早く俺の頬に口付けた。
 不意打ち。呆然とする俺に向かって一言、お馬鹿さんねとタヱは囁く。
「今日はどうもありがとう、またディトしましょうね。…お友達として」
 鮮やかに微笑んで、彼女はくるりと踵を返した。
「あ、タヱちゃん!ちょっと」
「送りは結構よ。御機嫌よう、探偵さん!」
 駆け出すその姿はすぐに街の雑踏に紛れる。
「…ち、」
 やられた。俺は舌打ちして、タヱの唇が触れた頬を掌で抑えたのだった。

 部屋に入ると暗かった。先に寝ているような時間でもないと思うが、ライドウはどこかに出ているのだろうか。
 窓の外に浮かぶ月齢十四の月は満月に近付いて、ふくふくと太っている。室内を一歩進んだところで、月明かりの届かぬ部屋の隅にライドウが座り込んでいることに気付いた。
「わ、驚いた。何やってんのお前、そんなところで」
「…お帰りなさい」
 明かりを付けようと手探りで壁を手繰れば、ライドウの声が凛と響く。
「すみません。灯りは付けないでください」
 ほんの僅か、声が震えていた。訝しく思うのと同時に、微かな鉄錆臭が鼻を突く。
 俺はライドウに近付いた。しゃがみ込んで顔の高さを合わせようとすると彼は身を固くする。
「怪我してるのか、もしかして」
「少しだけ。大丈夫です」
「ゴウトは」
「里に帰っています。数日で戻るでしょう」
「あいつも怪我してるのか」
「いいえ、これはゴウトのいない時に失策った結果です。僕が未熟でした」
 俺は膝を抱えるライドウの両腕を掴んで開かせた。学生服がじっとりと湿っているのは血だろうか。袖を捲り上げれば、雪のように白い肌に三十センチほどの長さの、どす黒い傷跡が開いている。俺は息を飲んだ。
「これ、治療とかしなくていいのか」
「もう傷は塞がっています。休めば回復しますから」
 この様子だと腕だけではないのだろう。此奴が傷付いて帰るとは珍しいことだった。優秀な悪魔召喚師であるライドウは敵の太刀を許さない。俺は彼が戦闘している所を見る機会は滅多にないが、聞けば普段の穏やかな様子からは想像もできない、まさに悪鬼の如し強さなのだという。しかしそれも目付け役あってのことなのか。それともまさか「今日」だからか。
「その、未熟者のお前を置いて何しにいったんだ、あの猫は」
 思わず眉間に皺が寄る。歳若いライドウが普段から命の遣り取りをしているのだと、俺は初めて実感した。油断を誘ったのは自分だと考えるのは自惚れかもしれないが、迂闊に当て付けた自分に後悔する。
「僕以外の悪魔召喚師を帝都に送ってくれるよう、頼んで貰いに行ったのです」
「なんだと?」
「その者に帝都守護を任せて、僕はもっと別な任務に出るつもりです」
 ざわりと厭な風に胸が波立つ。俺はゆっくりと深呼吸をして、ライドウの言葉を頭の中で反芻した。
「…どうして」
 思わず呟いた俺に向かい、ライドウは薄く微笑んだ。お決まりの微笑だ。いつもよりもさらに諦めの色が濃い。
「僕はここでは使い物にならないからです」
「お前は優秀なんじゃなかったか」
「貴方をお慕いしています」
 さらりとライドウは告げた。俺は目を瞠る。
 傷付いた手がゆるりと伸び、俺の頬を慈しむように撫でる。指先から生暖かく濡れた感触は血だろう。それは先ほどタヱが口付けた場所だった。もしかすると見ていたのかもしれないとちらりと思った。この部屋の窓からは階下を見下ろすことが出来るが、声は聞こえない。
「…貴方をお慕いしています。もうずっと」
 もう一度強く、はっきりとライドウは言う。噛み締めるような声だった。
 俺は今どんな表情を浮かべているのだろうか。自分では分からない。分からないほど動揺している。灯りが付いていなくて良かった。
 俺が好きだから?
 此奴は去るというのか。
「想い過ぎておかしくなってしまいそうです。いや、きっともうおかしいのです。いっそ貴方に罵られ、こんな恋慕には止めを刺してしまいたい」
 頬を撫でる指が退いた。その拳がぎゅと握られて、ライドウはやっと視線を伏せる。射抜かれるような瞳から解放されて、俺は自分が今まで息を止めていたことに気付いた。
「お願いします、鳴海さん。はっきり迷惑だと言ってください。気持ちが悪いと言ってください。それで僕は全てを諦めて、ここから去ることが出来る」
「…ライドウ」
 声が掠れた。名前を呼ぶ以外何も出来ない。
 願ったり叶ったりじゃないか。迷惑だと一言言えばいいのだ。それで此奴は俺の前から居なくなる。俺が心乱されることも二度とない。
 ―――なぜ心が乱される?
 臆病者というタヱの言葉が脳裏でぐるぐると渦巻いた。
「どうぞ、遠慮は要りません。迷惑だと、顔も見たくないと仰ってください」
 なぜそんなことを、笑いながらお前は言うのだ。そんな、泣きそうな顔で笑いながら。
「さぁ」
 そんなに美しい顔で。
 俺は自分の心臓が痛いほど強く脈打っているのを感じていた。呼吸が浅くなり、頭の芯が白く霞む。その感覚が恋――欲情だと気付くまで随分と時間が掛かった。
 俺が好きだと切ない覚悟で告げる美しい顔に、いとおしげに触れる白魚の指に、傷付いたその身体にさえ。そうか、俺はずっと欲情していたのか、この少年に。あの時も、あの時も、あの時も。
 娼婦の好みが年増から小娘に変わった。ライドウが傷付いて泣くのが見たかった。哀しく微笑するたびに残酷な気持ちが湧いた。
 果たしてこれは恋と言えるのだろうか。
 酷く此奴が目障りなのに。
 目の前からライドウが消えることに、今俺は恐怖している。
「俺を好きだと、俺の前から消えるのか」
 此奴がいなくなることが怖い。俺を慕っていると告げる言葉が怖い。しかしこの胸のうちは、なんだ。
「貴方は僕の気持ちをご存知だったのでしょう。軽蔑されながら一緒に過ごすのは辛いのです」
 ああ知ってた。知ってたさ。
 だからタヱを使ってまで当て付けて諦めさせようとしたんだ。思春期の同性愛など流行病のようなものじゃないか。付き合わされて本気になっていたのではこちらの身が持たない。
 俺は臆病な大人だから、お前が醒めた時に一人取り残されるのは御免なんだ。焼け死ぬと解っていながら炎に飛び込む虫のような真似はしたくない。
 そこまで考えて、俺はとうとう観念した。
 ―――ああ、この馬鹿。とうとう眼を背けられなくなった。
 そうだ。もうとっくに、俺はこいつに惚れていたのだ。
「…ライドウ、もう一度言ってみてくれないか」
 俺は気を落ち着かせるために深く深呼吸をした。
「俺をどう思っているんだって?」
 ライドウは躊躇いがちに応える。俺の真意を測りかねているのだろう。
「…愛しています、とても」
 ずしりと胸が痛んだ。酷い衝動だ。これが恋以外の何だ。
「後悔しないか」
 それはむしろ自分に対する台詞だった。
「しません、でも…鳴海さん?まさか」
 俺は覚悟を決めた。もう見ない振りはできない。腕を伸ばし、ライドウの両肩を掴んで抱き寄せた。
「!鳴海さ…」
 抱き締めると血の香りがする。ここ以外のどこかで此奴が野垂れ死ぬ所など考えたくもない。
「他の任務に付くだって?馬鹿なことを」
 そんなことはさせない。どんな裏の手を使っても。
 俺はライドウの顎を捉えて上向かせ、薄い唇に口付けた。ライドウの身体がビクリと震える。
「っ…、なる、」
「少し黙れ」
 柔らかくて冷たい唇だ。唾液の味が知りたくなり、こじ開けて舌を差し入れた。甘い舌がおずおずと応える。
「っふ…、」
 そうだ、俺はずっとこの溜息が聞きたかった。長く接吻しているうちに、ライドウの身体からゆるゆると力が抜ける。
 漸く唇を離せば、その白い肌に伏せられた長い睫毛が濡れているのに気付いた。
 これで伝わっただろうか。言葉にしないのは卑怯だろうか。
「ライドウ、俺はさぁ、凄く臆病者なんだ」
 滑らかな頬を伝う涙を舌で舐め取る。ライドウは顔を上げない。次から次へと頬を雫が伝った。
「タヱちゃんにも振られちゃったよ。逃避する男は嫌いだってさ」
 ライドウはおとなしく俺の腕に抱かれている。こんなにきれいな生き物が俺の胸で泣いているなんて、俺が好きだと泣いているなんて、そんなこと。長く続くわけがない。
 もしも愛し合ってしまえば、ライドウはすぐに俺にとってなくてはならない存在になるだろう。これ以上ないほどに大きな存在になるだろう。そして失われたときには、俺の心にこれ以上ないほどの大きな傷を与えるに違いない。
「怖いんだ」
 ライドウは若い。きっとすぐに忘れてしまう。
「鳴海さん」
 ライドウは顔を上げた。俺が震えているからだろうか。涙に濡れた瞳で不思議そうに俺を見上げている。俺は表情を読み取られないよう片手で自らの顔を覆い隠した。
「俺はお前に愛された後、いつかその愛を失うのが怖い」
「だから愛することすら諦めるというんですか」
 俺は頷いた。震えが止まらない。不味い。表情を隠したことで安心してしまったのか、指の間から涙が零れた。
 俺の傍に居てくれ、でも愛さないでくれ。なんて酷いエゴだ。
「…鳴海さん、僕は確かにまだ若く、未熟です」
 ライドウは俺の手を顔から引き剥がした。その腕は思いのほか強い力で抗うことが出来ず、濡れた瞳がぶつかり合う。
「しかしだからこそ、いつ死ぬか知れぬのです」
 美しい目に宿る冷たい覚悟に、俺の背中がゾクリと冷えた。
「僕の方が余程ずるい。それを承知でお願いします。僕は最後のその瞬間まで貴方を愛し続けると誓う。もしも少しでも僕を想う気持ちがあるのなら、そして少しでも哀れに思うならば、それまで僕を愛してください」
 ―――なんてことだ。
 俺は思わず唸った。信じられない。なんてことだ。
「…お前、それは本当に酷いね。なんて重いものを俺に背負わせるつもりだ」
 呆れる。それは俺以上のエゴだった。いつか振られるのが怖いなどと言っている俺が馬鹿みたいだ。
 ライドウは微笑んだ。それはそれはきれいな微笑だった。
「お慕いしています、鳴海さん」
 俺は腕の中のライドウを見下ろす。いい加減、逃げ道は残されていなかった。



「それで結局、あのあとどうなさったの」
 ぐいと身を乗り出すタヱに、俺はさあねと肩を竦めた。
「酷い、あたくしには知る権利があるわよ」
「ほらほら、あいすくりんが溶けるよ」
 指差せばぷうと膨れて、しかし素直に匙を取る。夕暮れのフルーツパーラーは穏やかな夕焼けに満ちていた。
 俺は珈琲カップを持ち上げる。モカの香りは香ばしく、口に含むと仄かに甘い。
「今日の歌舞伎は中々だったね」
「お芝居よりも貴方たちの方がよほどドラマティックだわ!」
 本当に変わった女だ。しかしだからこそ、俺との長い友情が保てているとも言える。恋人ではないにしろ、やはりタヱも俺に必要な人間なのだろう。
 俺はあいすくりんを頬張るタヱに微笑みながら、そうだな、と呟く。
「とりあえず、君に見損なわれるようなことはしないつもりだよ」
 後ろの方で、からりからりと扉に付けられた鈴が鳴る。振り返れば、黒猫を伴った書生が店内へと入ってくるところだった。

「それにしても、もしお前が天寿を全うしたらどうすればいいの、俺」
 肩を並べる帰り道、煙草を吹かしながら俺は訊く。
「全うしますよ、僕は優秀ですから」
 至極さらりと言ってのける少年に、俺はぱちくりと目を瞬かせた。
「死が二人を分つまで愛しています」
「…それは酷い。なんてエゴだ」
 俺は思わず笑い出す。ライドウも笑った。
 今宵は新月、俺は少年の腕を取り、暗がりに誘い込んで口付けてやった。
 向こうの街灯の下ではひらりと蛾が一匹、ゆらゆらと舞っている。


END

(2006/06/25発行「誘蛾灯夜想曲」に収録)

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