愚か者の夢


「雷堂さ、悪いんだけど明日からちょっとお使い頼まれてくれないかな。すこぅし、遠いんだけど。二、三日で帰ってこれると思うから」
 この世界にやってきて数日が経った頃だった。夕食時そう告げた家主の鳴海に、もう一人の僕、葛葉雷同は眉をひそめた。
「異世界の我を置いてか?それは」
「だけど、急ぎの用なんだよ。申し訳ない話だけど、ライドウちゃんが来たからってウチの仕事がなくなるわけじゃないんだから」
 最もな意見である。
 僕は足元で餌を食むゴウトを見下ろす。僕達はここでは異物なのだった。いなくてもいいもの、在ってはいけない存在であるから、元よりこの世界の彼らが僕に気を使って生活を乱す義理などはない。僕がいるせいで仕事に支障が出るのなら、それは困るだろう。
 しかしこの世界の鳴海が僕の知っている鳴海よりも仕事熱心かというと、実際そうでもないようだった。むしろあちらの彼よりも酷いといえる。少なくとも、僕の知る限りウチは銀楼閣を追い出されたことなどないのだから。
 そんな彼の殊勝な台詞だから、雷堂が訝しげに眉間を寄せたのも当然だ。異世界の僕はどうやら僕よりも善良な人間で(同じ育ち方をしているはずなのに何故だろう)、僕の行く末を人一倍案じてくれているようだった。かと言って僕が元の世界に戻る為の仕事をしている間、彼に手伝えることは少ない。
「僕なら大丈夫ですよ。雷堂が居ても居なくてもやることは同じです」
 だから僕はそう言ってやった。仕上げには彼の力が必要不可欠だが、二、三日で戻るのなら問題ないだろう。むしろ僕にとっては好都合と言うものだ。
 雷堂はうむと唸る。
「…そうか。それならば」
「助かった!実際、一刻も早くお金を稼がないとヤバいわけよ」
 鳴海が手を叩いてにっこりと笑う。それは真実なのだろう。なにしろ僕がここに辿り着いたとき、彼らは家賃を滞納して締め出しを食らっていたのだ。だん、と雷堂が机を叩いて鳴海を睨んだ。
「それはお前の所為だろう!大体なぁ、一月分の生活費を持って賭場に行く莫迦がどこにいるんだ」
「だからー、それはさぁ、ついうっかりー」
「うっかりじゃない!それで何故全額負けるまで勝負を続ける?」
「いや、だから、負けが込んできたから一気に取り返そうと思って」
「それで有り金を全て大穴に突っ込んだと言うのか!本当に莫迦すぎて眩暈がする」
「莫迦莫迦言うなよ、本当に莫迦になるじゃない」
「今が莫迦でないとでも言うつもりか、この莫迦!」
 仲が良いなぁと思いながら眺めているうち、視線を感じて足元に目をやるとゴウトが僕を見上げていた。心なしか心配そうな表情の彼ににこりと微笑んでやる。
 当事者でいるうちは振り回されて目が廻るのに、傍から見ているとこんなにも分かり易いものだろうか。なるほどこれならばゴウトなどはすっかり気付いているに違いないと思う。なんだか可笑しくなった。きっと雷堂には何も見えていないだろう。
 どうやらここでも鳴海は「上手く」やっているようだ。二人の鳴海は中身までとてもよく似ているように見える。そしてこの世界の雷堂は、僕よりも数段に素直で真っ当だ。
 嗚呼それに比べて、僕のなんと汚れていることか。
 雷堂の説教を微笑んで躱していた鳴海がちらりと僕に視線を流す。僕はその視線を絡め捕り、薄く唇の角を上げた。

 翌日は早めに捜査を切り上げて帰った。
 雷堂は朝から出かけている。恐らく鳴海の言う通り二、三日は戻らないのだろう。
 残された者同士、特に会話もなく食事を済ませて僕は湯を浴びる。ゴウトは食事のあとすぐに寝所に引っ込んでしまった。もしかして気を利かせてくれたのだろうか。
 風呂を上ると、待ち構えたように自室のドアに背中を凭せ掛けていた鳴海が僕を手招いた。
「…さて、じゃあ少しお話しようか、ライドウちゃん」
 あの人と同じ声に胸が詰まる。僕はひとつ深呼吸してから、はいと頷いた。
 ―――許せよ、もう一人の僕。
 気付かない君が悪いんだ。

 僕を自室に招き入れた鳴海は扉を閉めるなりそのまま僕を抱き締めた。
「っ…」
 予想していた展開なのに、くらりと眩暈がする。力強い腕と体温、ワイシャツの胸に顔を埋めて息を吸い込むとトワレが馨った。ああ、あの人と同じ匂いだ。それだけで僕はもう泣きそうになる。
 心臓が押し潰されそうなほどに切ない。
「なるみ、さん」
「ライドウ」
 囁きにズキンと胸が疼いて、痺れがそのまま下半身に達する。
 同じ声だ。嗚呼、同じ。
「…鳴海さん…!」
 僕は縋り付くようにその身体を掻き抱いた。全身を甘い戦慄きが覆い尽くして息も出来ない。嗚呼、こんなこと、現実には決してできない。けれどどれだけ望んだか知れない。
 切ない声で僕を呼ぶこの人もきっとそうなのだろう。
 骨ばった指先で顎を捉えられ、口付けされる。あの人と同じ煙草の匂いがしたのでまた泣きそうになった。
「ふっ…、ん、は…」
 恥ずかしいくらい甘い吐息が漏れて、途端に頭に血が上った。僕たちは抱き合い、口付けたままもつれてベッドに倒れこむ。
 確認などはいらなかった。僕たちには良く判っている。お互いが決して手を伸ばせない誰かに限りなく近しい身代わりを得たこと、そしてそのチャンスが今この時しかないという事を。
「恐ろしいほど倒錯的だね」
 僕を組み敷いた鳴海が苦笑しながらそう言った。
「僕と彼は少し違うでしょう。満足していただけるか、どうか」
「…それぐらいで丁度良いよ、きっと同じだったら壊してしまうから」
 僕の問いにぞっとするような目で応える。
「雷堂はさ、生意気じゃない、凄く」
 彼のことを口にしながら、鳴海は僕の夜着を剥がしていく。
「そう…ですね」
 自信過剰で負けん気が強い。自分の中にもあんな部分があるのだろうか。
「あれを見てるとさ、無性にへし折ってやりたくなるよね」
 僕の見る限りこちらの鳴海は雷堂にとても優しい。
 それは不自然なほどの優しさで、だから内側の凶暴さが透けるのだけどきっと雷堂には見えないだろう。僕の世界の鳴海も僕に優しいが、果たして同じように考えているのだろうか。
「真っ赤に腫らせた生意気なあの目で、俺を睨ませたい。意志の強い唇を切れるほどに噛ませたい…ぼろぼろになるまで責め立ててやりたい」
 言葉が熱を持ち始めて、反比例して口調が醒める。僕を見ていながら僕を通り過ぎるその冷たい視線にゾクリ背筋が痺れた。なんて醜い執着だ、うっとりする。
「…しても、いいですよ」
 期待に声が掠れた。
 どんなことでも、僕になら。
 鳴海は笑った。
「良い子だね、君はどうされたいの」
 ただ抱いてくれればいい。
 壊れてしまうほどに。二度とこんなことはごめんだと後悔するほどに。死にたくなるほど酷く酷く抱いてくれればいい。少しも希望を残したくない。
「ははは、君も大概に異常だ」
「貴方には叶わない」
 僕たちは歪んだ欲情を満たそうとしている。現実に手を伸ばす勇気などさらさらない、卑怯者が二人。
「…後悔するよ」
「喜んで」
 囁いて笑い合った。きっと僕たちは絶対に後悔する、けれどそれでいい。
 鳴海が僕の首筋に舌を這わせ始める。

 それから僕たちは、雷堂が戻るまでの二日間をひたすら交わって過ごした。
 彼は何度も何度も僕の中で果て、僕も数え切れぬほど達して幾度も気を失った。それは限りなく不幸で、そしてこの上なく幸福な時間だった。僕たちは決してお互いを愛することがないと知っていて、だからどんなに淫らな事でも出来た。
 三日目の朝には通常通り目覚めて、僕は汚れたシーツを洗濯した。鳴海は新聞を読みながら珈琲を飲んでいる。昨夜までのことをどちらも口に出さなかった。ドアをかりかりと引っ掻く音がしたので開けてやるとゴウトがするりと入ってきた。
「お帰り、ゴウト」
 彼はこの二日間姿を見せずにいてくれた。
「気は済んだか」
 こちらを見上げもせずに言う。
「ありがとう」
 もう応えない。そしていつもの通りの朝が戻ってくる。
「…行って参ります」
「ああ、行ってらっしゃい」

 最後の角柱を手に入れて名もなき神社を出るといつの間にか帰ってきた雷堂が待っていた。
「揃ったか」
「ああ。すぐに生霊送りを頼む」
「そうか、鳴海に挨拶していくか?」
「いや」
 僕が横に首を振ると、雷堂は少しだけ意外そうな顔をした。
「…君からよろしく伝えておいてくれ」
 学帽の鍔を下げて微笑めば彼は頷く。僕の言葉に何の疑問も持たないその姿を僕は好ましく思う。
 ―――さようなら、もう一人の僕。
 穢れを知らぬ僕と同じ顔の君。
 どうか君は一生気付きませんように。彼の心がこの先も平穏でありますようにと、僕はそれだけを願った。

END

(2006/8/19発行「狐落とし」に収録)

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